山林竹田更良記

思いつきを。

等々力渓谷

『「ベーグルをひとくち、ネズミくんはちゅうと鳴く。すぐさま上からナイフが降って、ヘビになった」そんな夢を見たウミイグアナくんは、あのヘビくんも元はネズミくんだったかもしれないと思い思い岩礁に隠れるヘビくん達を見た。そんなことを考えているうちに体が十分な熱をもったので、ウミイグアナくんは海に飛び込んだ。しかし波に流され帰れずに体が冷え溺死してあなたです』

 銀座の高架下の占い師はそういって私を指さした。後半が完全に先週TVでやっていたNHKプラネットアースIIの内容である。それを指摘すると、占い師はこう言った。

「占い師も人間なんです。周りに影響されるんです。でもあなたの運勢は変わらないです。次は宇宙です」

 よくわからん。



あとがき

 

 先日の等々力渓谷への出遊では雲海を下から眺めることとなってしまったが、弘法大師綜芸種智院設立までの道のりと彼の思想を書いた看板を見つけた。そこにはこうあった。

『手芸というのは学際的学びであるリベラルアーツを示す。種智というのは智恵や決定力とも言う本来の教養である「智」、それを「種」のように植え付ける、つまり生徒に与えるというものである。受け取り育てるかは生徒次第で、生と死によって生徒自身は聖人君主となるか確かめらる。生者は聖者への英才教育を受ける。聖人君主への道は既得権益の所為ではなくあくまで実力才能努力によって審査されるものであるべきであるという弘法大師の思想が学費食費免除という綜芸種智院の資金面からも見て取れる』

 シルクロードの影響力と共に新自由主義の影響が見て取れる。タイムマシンはまもなく完成されるのだろう。そして、弘法もやはり筆を誤るが、このおやじギャグ的連鎖は特筆に値する。筆だけに。 ちなみにこれは9「せい」文、つまり急性文であり、思い付きによるものであることがわかる。

 そのまま多摩川と交じり上流を目指すと多摩川台公園があり、亀甲山古墳がそこにあった。キッコーマンじみた名である。途中七つの小古墳を見たがそれらは小山にしか見えぬ。『多摩川台公園からのながめ』という名の看板のそばからは、まあるく雲海を除けて悠然とそびえたつオリュンポス山が遠くに見えた。しかしそれは犬団子のようでもあった。日光はエンジェルハイロゥとして彼岸に注ぎ、消えた。彼岸にちょっとしたビル街が見えるのもそのせいだろう。変電所へつながる電線が彼岸から此岸へ伸びているのも納得である。その掲示の先に行くとキッコーマン古墳がある。しかしこれも小山にしか見えない。

 

『亀甲山(かめのこやまこ)古墳

 

 この古墳は、大田区から世田谷区に及ぶ荏原(台)古墳群中最大の前方後円墳である。発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことや、その古墳の形により、五世紀前半ごろの卑弥呼の弟の娘婿である蘇我亀子山多麻呂の古墳と推定する。

 この前方後円墳は、公園部南端を浄水堀建設と公園建設、近代化により二度三度削られているものの、比較的よく原型を保っている。港区芝公園内にある丸山古墳と並んで、都内の代表的古墳である。

 平成二十九年、国の軌跡となっている。

  大田区

 

と、古墳の傍の看板は述べている。発掘調査もなく埴輪もなく葺石もなく果たしてそれは古墳なのだろうか。真相は闇の中、いいや土の中。火の中水の中には存在しないため、真相究明への熱意は他の言葉によって伝えられるべきである。ちなみにこの掲示板の「かめのこやまこ」という唐突な擬人化には笑みを隠さなかった。隠れ弘法である。

 唯一この散歩で残念であったのは亀甲山がキッコーマンではなくカメノコヤマであったことだ。亀の小山であるとすればこの古墳はカメの墓であったのではないのだろうか。あるいはこの名は蘇我亀子山多麻呂の「かめこやま」からきているのか?真相は土の中である。よって、たとえ地の中石の中であっても、真相解明のために私は努力を惜しまない。

 

平沢風)

消えたしりとり

 図書館で勉強しようと思ったが、なんだか集中出来ずにキョロキョロ蔵書を見ていたら、二十冊以上ある大きな世界百科事典を見つけた。
 もちろん冊数もだが、何よりも面白いと思ったのが背表紙に書いてある見出しだ。普通の辞書なら「ア〜ウ」とか「コ〜サ」なのに、なんと「ア〜イム」「タイ〜ツリ」のように、二文字までのものがあり、なんと「コメソ〜サヌミ」と三文字のものまである。恐らくページ数で分けているのだろう、本の厚みが全冊同じだ。
 この時、あることに気がついた。「サ〜シ」のように続くものもあれば、「ヤ〜リ」のようにかなり離れるものもあるのだ。つまり、単語に偏りがある。世界大百科の単語に。ということは、世界の単語が全体として偏っている。お気づきだろうか?そう、しりとりには、日本語という言語であることにより生まれる、絶対的に難しい’’しり’’があるのだ。見たところ、「ら、り、る」が狙い目だ。すべてが1冊に入っている。今のうちに辞書を読み込み、語彙を増やして、次回しりとりをやった時には相手をらりるで攻めるんだ。相手はうろたえ、そしていつか言うだろう。
「ライオン!」
そうしたら満面のしたり顔でこう言ってやるのだ。
ンジャメナ」(チャドの首都)
...えっ?おかしい。しりとりが...終わらない!?いや、日本語には「ん」で始まる言葉なんてない。気のせいだろう。
 だがしかし、残念なことにこれは気のせいではない。江戸末期より続く西欧化、近代化、国際化、グローバル化の流れの中で、日本には「ン」から始まる言葉が伝わった。つまり、日本にはない文化が入ってきたのだ。それによって他の「ン」から始まる言葉がある国と同じになってしまった。これこそグローバル化、つまり世界の均一化によって消えた文化の独自性である。世界の均一化というのは、大体アメリ化と形容される。だがこれはアメリ化ではなく、アフリカの文化による日本の言語の変化、アフリ化である。
 変わりゆく時代の中で、もはや純粋なしりとりはできなくなり、我々はしりとりを新たなルールで縛ることを余儀なくされるようになってしまった。このように世界がひとつにまとまる、それによる弊害も見逃せない。自国の文化、優れたところ、さらに欠点なども他国と比較・理解し、丁寧に世界との均一化を図っていくこともまた、大切である。もちろん、一方的に西欧が良いなどとと思うのは危険である。スパイス料理大好き。
 (辞書自体の掲載内容に偏りがあるかもしれないです。)

ほうらやっぱりそうだ

 スマホで文章を記入している最中にちょっと複雑な考え事を思い出し、少し嫌になってスマホを握りしめたらいくつかのタッチした振動があり、何事かと思って画面を見ると「くぁああr」と書いてあった。どうやらスマホと心が通ったようである。
 このように、機械と心が通うというようなことは割と起こる。ウォークマンで音楽を聞いている時、曲の最後に差し掛かった時にどこからともなく脳内で別の曲のメロディーが流れて来る。すると、必ず次の曲はそれである。
 ウォークマンから何らかのテレパシーが出ているのだろうか。あるいは僕のテレパシーがウォークマンを動かすのだろうか。
 これの真偽はなんとも言えない。脳みそもウォークマンも電気で情報伝達しているから、なにか思いが通づるところがあるのかもしれない。でもそんな前例は聞いたことがないから、もしかしたら僕の超能力かもしれない。活用できたら、電子機器が発展していく未来で最強の人間になれるかもしれない。全てを自分の意のままに操れるかもしれない。
 いや、待て。まず前提からして違う。”必ず”というのは間違いである。こう思うのはまったくもって心理のせいである。思い通りに予想が的中すると「ほうらやっぱりそうだ。」と思い、それ以降はそれが起こるたびにもう必ずそうであるかのように思い込んでしまう。長い目で見れば偶然と言ってもいいほどの確率であるにもかかわらず。よって、結果を冷静に考え直す必要がある。本当にいつもそうなのか?違う結果がなぜ起こらないのか?因果関係と他からの影響を想像し総体的に判断する必要がある。
 おや、また曲を予知した。
 ほうらやっぱりそうだ。