山林竹田更良記

思いつきを。

寝る前のルーティンワーク

 だめみたいだ。毎夜毎夜死ぬことしか考えられない。意志の力で死ねればいいのに。なぜ自分で自分の生命活動を停止できないんだろう。強く思ったら、心臓が止まったり細胞分裂が終わったり痛みが消えたりすればいいのに。

 何もやらずに腐ってゆこうとするのすら難しい。何もやらないというのは難しい。変にやる気を起こしたり、快楽や感情を求めて動いてしまう。あぁでも音楽聞いてトリップするんはやめられねえぜぇ、やめないぜぇ。

 自己放棄で死んだ人間を見て、生きねばと思うか?死のうと思うだろうね、今と変わらない。何も変わらない。吐き気を催すだけ無駄。死んだらどうなるのか考えれば生きるか死ぬかどうか自明。でも僕は死ねない。苦しみは嫌だし、なんだか未練があるような。未練。何がつかえているのだろうか。死ねば無、そうとも割り切れない。理性の敗北だ。いや、未だかつて己の行動において理性の本能を上回ることがあっただろうか...いや、割とあったわ。あったわー.........。割り切れない。言い切れない。曖昧。嫌だねぇ、本当に嫌だねぇ。この国が嫌なら国外に行けばいい。この世が嫌なら、あの世に行くしかない。いや大差、ある。あぁ割り切れない。ウジウジとのぼぉーぅと日暮。あぁ不幸だ不幸だ。あぁ苦痛でしかない。

「割り切れないなら、ずっとそのままですよ」

 もっともだぁ。もっともなんだ。

 「死にたいなら、今すぐ死ねば良いじゃないか」

 全く持ってそのとおりなんです。人を不快にするこの優柔不断は黙ってすぐ失せればいい。そうすればミステリアスの極み、泣く気も失せるってもんだ。

 でも、割り切れない。割り切れない、割り切れない。

 

消えてしまうもののために

 美しいものを見ると心が洗われる。ただただ美しいものを眺め、情動を楽しむ。強く求めてはいけない。注目は全体を遠ざけ、美しさへの執着は空の心を生む。見てはいけない。

 ちっぽけな自分は存在し、美しく思え、目が離せないでいる。未開な何か、透き通るものが体を満たす。何も、はっきりしたもの、大きな転換などない。だが、それでよいのだ。このひとときの感傷のために、生きる。やがて失せる自分という存在、そのために。

 

そんなわけがあるか。腹は満たされない…

気のせいだろうか?

 こんなにも僕は情緒不安定であったろうか?

 週の初めには可能性に満ちた顔を世界に見せ陽気に自発的な会話をしていたはずだが、今や地の底で這いつくばる気持ちだ。誰とも接したくなくなる。

ちっぽけだ。

 ほんと、生物ってなんなんだろうな。ゴキブリは僕と同様に生物で、飯食ってうんこして生きてる。ヒトはそれに加えて石を削って木を切って、土を掘り返し鉄を溶かして。なんだこれ。猿の次がヒトって。冗談だろう?じゃあ、猿の前はフンコロガシだ。たまに二足歩行するし。

 「言葉によって考えさせられている」と言う人がいた。思考は、脳内で仮想現実を構築して、それを、こう、押したり、引いたり、ラジバンダリ。そしてこの仮想現実の視覚以外を作り上げるのが、言葉だ。現実を抽象化し、簡単に、わかりやすくし、より複雑な思考を可能にし、見えないものに関しても考えられるようになる。言葉は思考に先立ち、初めに言葉があってから神というぼんやりしたものに考えが至るようになった、という意味だと思うが、それにしてもこのビル群はわからない。電気なんていうものが通っているし、一瞬で火がつくガスもある。制御された爆発で前後に動く車、空を飛び三次元的に動く飛行機。そして、これらがでっかい地球の表面にいるちっぽけな一生命に作られたものということ。けれど未だヒトが持つ地球すら小さく見えるほどの巨大な探索網をもってしても、他の生物という存在/現象は他の星において見つからないままに受験勉強に精をだし、宝くじに一喜一憂する僕がいる。ええーっ。なあにこのスケールの違い。言葉で考えても、理解できない。そうあるがゆえにそうである。理解するものではない。