山林竹田更良記

思いつきを。

着物

 あえて洋服にこだわる必要もないじゃない。一年間週五日ほどの頻度で着物を着ていて思った。機能性で言えば、もちろん和服は洋服に劣る。着物が身体の動きを決める。着る人はそれに従うのみだからだ。抗えば着物は己を破壊して抵抗する。特に古いものであるほどその傾向は顕著になる。裂け、ほつれ、破れ、袂を裂き中身を落としてきたり、太ももにセクシーなスリットを入れてくる。それらを僕は謝りながら繕う。
 着物は急ぐこと、速く動くことを嫌う。すぐに駄々をこね身をよじって僕から逃げてゆく。あっという間に。こちらはもちろん急いでいるのでイライラする。もう脱ぎ捨てて全裸で走り去りたくなる。しかしそれでは手元に残るのは復讐の快感と手錠だけである。だからグッと歯を食いしばり腹に力込めて堪える。大きく息を吸い、心の中で「気楽に生きていこうぜ」と言いながら息を吐く。そして服の乱れを正し、そろーりそろーりと後ろから授業中の教室に入るのである。このようにゆっくりすることを強制されるのだ。
 動きの形も指示される。姿勢を良くしなければならない。でなければすぐに胸板が公のもとにさらされる。足も小股で動かし、しゃがむときは正しいフォームのスクワットのようにしなければならない。これらを意識すると急におしとやかになる、なってる気がする。
 袴は着物を活動的にしてくれる。だが場所をとる。「そこのけ俺が通る」でいなければ引っかかって裂けて終わりである。小さく一人分で座ればしわくちゃになり、急で階段ではきれいにホコリを集めて持っていってしまう。服に合わせて動きを変えて気持ちも変えていかなければいけない。
 こんな服をよく着ているからなのだろうが、急に洋服を着るとまるで何も着ないで全裸でいるような気持ちになる。そして逆に自分の行動が気になってそわそわして気が休まらない。結局、体の動きが見えにくかったり奇抜で服にばかり目が行くような格好でしか落ち着かない。普通を着るセンスも感覚も着物に破壊されてしまった。コンサバ極か非洋服極でしか平安が生まれない。自由がなくなった。
 歩き方も、大きく着物に影響を受けた。着物には下駄か雪駄を履くのだが、これらは自由に歩き回れるようなものではない。履くのに慣れが必要であり、それは歩くという行為を根本から考え直すことなしにはなされないのだ。雪駄はサンダルと別物。カカトの休まらない、緊張感を必要とする履物である。下駄は「最低片足一点、二点あれば安定」とトンデモ理論を展開し、こちらの意見を顧みない硬さを持っている。だからま右足の出し方から考えた。軸足は曲げるのか?右足はどこから接地すればいいのか?接地した後は?歩き方が常に不安定になり、持病のヒザ痛が解消し、靴の素晴らしさがわかった。
 何を着るかは確かに人を変える。最も人の外側にあり、本質的なものから一番遠いように思えるが、実はここの選択が一番手軽に自分を変え、世界観を変えるんじゃあないかと思う。金を積むだけでよいのだから。変わらない日常にうんざりしたら、洋服と設計思想から全く違うような服を着てみてはいかがだろうか。