山林竹田更良記

思いつきを。

題名は、覚えてないっていう(笑)

 安くてよい服は中古と決まっている。どうしたって少し古い物が好きですし。古い物で懐古する、昔信者の相はあるとは思う。誰かが言っていたけれど、古い感じにするとちょっとした滑稽さのような、時代的なもの、現代に対して不真面目な感が現れているような、そんな感じが宿る。ファッションの話だったはず。僕は確かにそんな感じがして、そんな感じ好きだなあぁ。そんなところ、いいと思うんです。あえて流行から逆を行く。天邪鬼ですから(笑)

私:なるほど、どなたから出た言葉かは覚えていないけれど、その言葉に刺激を受けたと。

己:そうですね。

私:でも、名前は覚えていない?

己:でも、名前は覚えていないっていうね(笑)。こんなのばかりですよ。内容を重んじすぎる節がある。父親のせいでしょうね。

私:お父さんが、そういった方でしたか。古風な”漢”って感じがしますね。

己:そうですね。でも、名前は覚えてないっていう(笑)。

私:名前を覚えるのは苦手でいらっしゃるんですねぇ。名刺、忘れずに渡さないと(笑)。ちなみに、私の名前、覚えていらっしゃいますか?

己:私の名前ですか?そうですね、確か筆者と同じで、野生で暮らしていそうな名字と、走りが速そうな姓ですよね。でも、名前は覚えてないっていう(笑)。

私:そうですか。名より実を取る猟山駆さんに、本日はお話を伺いました。ありがとうございました!

己:はい、こちらこそありがとうございました。・・・あ、あー、あ?

私:同じ猟山です。

己:ぉあ、あぁ。うん、あーね。ありがとうございました。

物質で、非生物のもの。

 真鍮はくすみ、石は冷たく。

 ただその深みに時を忘れ、冷たさに己の熱を知る。

 冷たく、冷たくも変わり、層はどこまでもつづく。

 継がれ消えるとも生まれず、生まれずに消えず。

 あるままでどこか、遥か彼方で、変わる。

 知られずに。

 知らぬ間に何かへと、何かへと知れぬままに。

勉強しているのか!?

 勉強して他人に感謝されたり、勉強してよかったと思ったことなどない。とても独りよがりなものだと思っている。勉強は手段、と言えばそれもおかしくはないだろうが、はてさて私は何のために勉強しているのか?

 後悔しないためだ。勉強しておけばよかったと言う大人と、遊んでおけばよかった、と言う大人が身の回りにいて、前者のほうが多い。両親もそうだ。だが二人には違いがあって、母は思想として、父は経験として、そう語る。運動したほうがよい、清潔な方がよい、健康な方がよい、この流れで母は言ってくる。非常に辛い気持ちになる。この「〜したほうがよい」という、名前をつけるならば「普遍的よりよさ」をそのまま伝えてくる。そしてこの「普遍的よりよさ」に対して、常に完璧であることを求めてくる。

 わかる。僕も「普遍的よりよさ」が欲しいよ。でも、できないんだヨォ…。なんだか、どうにもこうにも、つかもう、つかもうとしても、手から落ちる砂のようにぼろぼろと。挑んでは失敗し、またできず、できずにもう、つらいよ。むりだよ…。

 「何スマホいじってるの?勉強しなさい。しないならもう風呂入って寝なさい。もう十時なんだから」

 「っるせぇ!クソが!クソがァッ!ぉぁあもうどいつもこいつも!」

 と、唐突にキレる息子は生まれる。知っているし忘れてなどいない。ずっと頭にある。だがやり方を知らない、やる気が出ない。なのにやれとだけ言われる。やっていないと、さらにやれやれできていないとたたみかけてくる。やる気の出し方を、教えてください。情熱をください。途方に暮れてしまった。

 そして父よ、経験を情報でなく感情でください。学のないことが、どれだけ苦しみの元となり、損をして後悔しているのか。と、正直なところ私は思う。素直であれば情報に期待通りの反応を示し机に向かうだろうが、私はひねくれています。

 いや、めんどくさい子供だ。子供はめんどくさい。いらないや。いや、当然の流れとして一生独身か。さみしいね。

がんばれ!

無意識でやって怒られる
つけっぱ
やりっぱ
わすれもの
無意識でやって、自分の無限大の無能さに責任をなすりつける。
馬鹿だからできないんです。

みんなバカで、できないものなのに。

習慣の力で続ける。
消すくせ
やるくせ
忘れないくせ
積み上げて身につけた毎日の習慣。

まだ間に合うだろうか?
遅すぎただろうか。
間に合ってほしい。
いまさらでも、いまからでも。

がんばれ、脱小学生!

無題

さて、モチベーション、つまり動機づけというものはいったいどこから出てくるものなのでしょうか?

それはずばり、欲望でございましょう。

あれがほしい、こうしたい、そうなりたい。ありとあらゆる物に、様々な形で欲望の矛先は向けられます。
時とともにより大きく、あるいは急に消えたり、忘れたり。そんなときもありましょうが、それ自体は際限なく湧くものでありましょう。でももし、欲望がなくなってしまったら?
「無欲を説き実践するような人々、一部の仏教徒など、欲を捨てているのは確かだが、なぜ生の欲求は捨てようとしないのか」
この疑問は誤っておりました。
欲を除けば穴一つ、底しれぬ恐怖が現れました。本能的欲求はもはや忘れてしまった。食欲性欲、この大なる二つはインスタントに満たされる。鮮やかに力強いそれは存在せず。習慣と言えば聞こえがよいが、惰性、それがふさわしく思います。
今だかつて、欲望は消そうとすれど欲望を欲するなどという気違いがありましたでしょうか。
習慣に依らぬ明確な欲望。恐怖と惰性の生を破壊できるだろうか。死を忘れさせてくれるほどの欲望。生を忘れるほどの。

あかぐろ

見ろ、赤黒い血の空だ!幻想がやってくるぞ、ガスは止めたっけな。チャリに乗って出かけよう、夕飯はもういらない。どこか遠くへ、知らないところへ行こう。革サドルは馴染まず、痛いままだけれど。探しものは頭の中にあって、どこに行っても見つからないのだ。触れられないもの、手は届かないもの、求めても決してそのままでありえず、現実が丸めて飲みこんでしまう。気づけ、見えないのか。あるだろうここに、それが。無視できるのか?それとも、あきらめたのか…。あるいは求めていないのか。いいや僕は子供だ。絵本の中にいる。燃やせ。赤く燃やせ。そうだ、赤黒いのは消えた幻だ。憎しみだ。夢を見せたのか?